プロフィール
生まれ~5月生まれだから“maiko”
村石まい子(真依子)
1962年5月23日生まれ ふたご座、寅年
三鷹市で生まれる。両親と兄1人の4人家族。
5月生まれなので、5月をドイツ語でmaiというところから「まいこ」と付けたそう。小学校入学前まで三鷹市に住んでいました。
小学校~福島が“原風景”
1969年目黒区立菅刈小学校入学。
おとなしい子どもでした。でも、2つ上の兄とよくケンカをして、母の言うことは聞かないので、「がんこちゃん」と言われていました。
両親が共働きなので、そのころにしてはめずらしい「かぎっ子」生活。千明ちゃんと友達になり、いつも一緒に遊んでいました。社交的な千明ちゃんのおかげで友達も増えてきましたが、おとなしいのは続いていました。生き物を育てるのが好きで、カブトムシ、セキセイインコ、ヒヨコなどを育てました。ハムスターを放し飼いにしていたこともありました。
夏休みの間中、母の実家の福島県天栄村のおじいちゃんおばあちゃんの家に、兄と一緒に預けられていました。田んぼの用水路に入ったり、ホタルを見つけたり、カブトムシを採りに行ったりしました。福島が私の“原風景”です。学校の先生だったおじいちゃんに教えられて、朝起きたら掃除、宿題、それから遊ぶという生活リズムが身に付きました。年の近いいとこが7人くらい集まった時は、にぎやかになりました。
中学校~反抗期
1年の1学期が終わる時に引っ越しをして、世田谷区立烏山中学校に転校。「どうして先生に言われた通りにしないとならないのか」と、校則を守ることが嫌いでした。ワンポイントのシャツを着たり、ブレザーのボタンをはずして着たり、スカートの丈を長くしたりしていました。読書感想文に伊藤左千夫の「野菊の墓」の感想文を出しました。民子と年下の正夫との結ばれない恋物語。「どうして女だから年上だから身分が違うからといって結婚をあきらめたり、好きでもない人と結婚しなければならないんだ?」と怒りの感想を書いて出したのを今でも覚えています。
高校~バスケに明け暮れ
1978年、都立駒場高校普通科入学。
保健体育科もあるので、運動部は一緒に練習。バスケ部に入部。2年生の時は1年間の内の360日は練習していたのでは?というくらい毎日毎日練習していました。私は万年補欠でしたが、インターハイや関東大会に出ることを目指して頑張っていました。夏休みの夏季合宿は山梨の高校生と合同練習をしたり、実業団の選手に教えてもらったりというかなりハードな部活でした。
大学~学んだのは、「科学的社会主義」
1981年東京学芸大学初等理科に入学。
入学手続きの時に新歓コンサート実行委員会に誘われる。今までとは違うことをやってみたいという思いから参加し、チケット売りや宣伝に奔走。イベントを成功させた喜びも体験し、そこからは学芸大学生協の活動にどっぷりはまりました。
生協の運動は実に多彩。「生協祭り」「スキー教室」「コンサート」などの文化レク活動から、店舗のひと声活動、バスの値上げ反対運動など、ありとあらゆる活動があり、“生協は民主主義を学ぶところ”と先輩に教わりました。
その中で「唯物論の哲学」「科学的社会主義のすすめ」「ものの見方考え方」などの本をみんなで学習しました。社会の発展は誰か一人の偉い人が進めるものではなく、矛盾にあえぐ民衆による改革を求める運動の力なのだということが分かり、そこに自分の生き方を重ねられるのではないかと思い、20歳の時に共産党に入りました。
都教組青年部の活動
教員採用は1985年。半年後に都教組に加入して、大田支部の活動に参加。当時は社会党が公明党と「社公合意」を結び、共産党排除の動きが強まっていました。ナショナルセンターとしての全労連ができ、労働組合は連合と全労連に分裂しました。都教組は全労連加盟の道を選び、日教組派との分裂で、怒涛の日々。その頃都教組青年部長になり、他の組合の青年部大会では、全労連への加盟を求める呼びかけをして、やじと怒号と歓声を浴びました。都教組青年部の宿泊学習交流企画の「元気いっぱく!」は私が青年部長の時につくりました。
小学校教員37年
教員としてのスタートは、今はコミュニティセンターとなっている大田区立北蒲小学校からスタート。
結婚して品川区立八潮小学校へ。(産・育休を取って)2人の子どもを育てながら仕事を続けること37年。大田区では、出雲小、都南小、大四小、東蒲小、萩中小に合わせて30年努めました。
学校は楽しいところ
「わかった。できた」という授業づくりを学ぶために、あちこちの研究サークルに顔を出し、自分なりに工夫して取り組みました。「“わり算島”の授業プリント、覚えてるよ。すごかったね」とリョウくんママが話してくれました。
子どもたちが「学校に来るのが楽しい」と思えるようにしたいと考え、子どもたちと一緒にいろいろなことに取り組みました。屋上での秘密基地づくり、糀谷商店街の阿波踊りに子どもたちと参加、毎月の誕生日会…etc 今でもたくさん覚えています。
教職員組合の大黒柱
子育てが一段落した2012年から10年間都教組大田支部の書記長を務めました。教科書採択運動、教研活動など、いつも子どもと教育を守る運動の先頭に立っていました。増え続けているパワハラ対応や区教委要請などでは、粘り強く訴え続けました。「困ったときはいつも村石さんに助けられました」と言われると本当にやって来てよかったと疲れも吹き飛びます。朝7時過ぎには学校に行き、組合活動を終えて9時過ぎに帰る日々でした。
大田区議への道
教師の仕事は若い人に任せて、私は教育をよくする運動を引き継ごうと定年の1年前に退職し、非常勤で働きながら教職員組合活動を続けていました。そこへ、「大田の区議に挑戦しないか」と話を持ちかけられました。この道に進むべきか悩みましたが、教育をよくしていくには、政治を変えなければならないと区議に挑戦することを決意しました。